2010年2月26日金曜日

寺島隆吉先生講義2010.2.20

寺島隆吉先生講義@達人セミナーin岐阜(20200220)

<スクリーン上のレジメから>
・良いことしか出来ない能力/悪いこと「も」出来る能力
・悪いこと「も」する/悪いこと「しか」しない/悪いこと

→自立の欠如/肉体的・精神的

・「悪いこと」に対する「歯止め」英語の力
⇔低賃金/長時間労働/社会的運動の停滞・貧困

・教師・学校の力⇔授業時数・クラス定員・教師一人当たりの担当生徒数友達・社会の力
⇔情報化社会・豊富の中の貧困


<渡部雑感>
この記述から子どもの能力を道徳的に(俗説的な社会規範といった観念)で捉えるではなく
肉体的に捉える重要性に気付きを得た。「肉体的に捉えること」をより詳しく説明していただけ
ると非常にありがたかったが、渡部にとっては腑に落ちた。

→『「しか」できない』と「しない」のは本人の意思の有無の差から起因する。
「しかできない」は回りの環境に影響を受けていることを強く想像させる。つまり
「友達関係中の見栄」でなどの、人間関係上「生徒がそうせざるを得ない追いつめられた
状況」を見抜く力が必要だということだ。生徒本人を責める事が、結果として追いつめる
事にならないかに、常に注意を払わなければならない。

このあたりは本年度より生徒指導部に配属になったのでよくわかった。
この投稿の後半で「読みの力が転移する」という話題を扱っているが、教員としての
「生徒を読む力」はそのまま生徒指導につながる。その意味で教科指導と生徒指導が
一体となっていることに「はっ」と息を呑む思いであった。

<雑感終了>

(正面画面のスライドが変わる)

大修館 英語教育(一月号) 英語教育時評 山田雄一郎氏の記述から
「英語教師は何よりも英語が出来なければならない.
その前提に立って初めて指導、指導技術を語ることが出来る。
英語教師として第一位に求められるのは英語力だ.英語が出来なければ、
いくら人柄が良くてもまた指導力や技術才能があっても、
英語教師としてのスタートが切れない。」


<以下講演内容>
はたして、この記述通りかどうか?寺島先生がカリフォルニア大学で教えていたときにも、
その大学内の教授同士で「もし教えている科目の力があるならば、その仕事をしている。
経営学なら、会社の経営者とかして財を成すなりしているはずだ。」寺島先生自身も、
「私は英語が出来ないから英語を生徒と一緒に学ばせてもらっている。教材研究をする中で、
自分で学習法を試行研究し、その試行錯誤から体験的に確信を得た学習法を通して、
生徒に還元しているにすぎない。」とおっしゃった。
また、「もし学力的に完成された者しか教壇に立つことが許されないのならば、
どれぐらいの人が教壇に立つ事が出来るのだろうか。生徒と学習活動、学校行事や
クラス運営などの取り組みをしながら、努力を重ね教師自身が自分自身を成長させながら
やっていくしか無いのではないかと思う。」とも語られた。

<以下渡部雑感>
 この状況というのは、教員採用試験の採用方式を勘案しない限り、この風潮は
変わらないのではないかと危惧している。それは自分自身が採用される前5年間はやり
TOEICを受験していたこともあるし、そのスコアが多少なりとも優位に働いたか、
足切を免れる免罪符になったのではないかと感じているからである。

 先日、中谷彰宏氏の著書、「25歳までにしなければならない59のこと」 の中で
正確ではないがこんなような記述があったのを覚えている。

「日本社会においてはほとんどの大卒新入社員は22歳前後で採用されている訳
ですが、その中でも大学入試という競争を経て一流大学と呼ばれる大学に入り、
その後大手の会社に入社した社員はその時点で「あがり」になってしまうのです。
これは大卒に限らず競争の激しい入社試験を経た社員であればどの業種でも
同じ事がいえます。

 こんな例もあります。首都圏に従業人50人程度で客室数1000室程度のホテルが
開業されたとします。このホテルのオープニングスタッフとして40人のスタッフを採用
するための採用試験を行うとしても、その倍率が10倍を超えるというのは稀です。
新規開業ですから。しかし、仮にそのホテルの評価が上がり、ガイドブックでも絶賛された
とします。その場合、そのホテルの採用試験は一年に採用できるのがもし5人だとしたら、
そこに100人とか1000人の応募が殺到する訳です。そんな倍率を経て入社した社員は
威張ってしまう。誰に威張るかというと、本来サービスを尽くさねばならないお客さんに
威張ってしまう。これでは本末転倒ですよね。

(要約終)

 この話をよんだ読んだ時に教員採用試験に読み替えて自分の言動に恥ずかしく
思った。また、少なからず私もそういった人間の一人だったと思う。教員採用試験
に滑る事5回、常勤講師で食いつないでいた時期に比べて初任者であった一年は
もっと恥をかき、先輩方の手足になるぐらいのつもりで働かなければならなかった。

しかし振り返ってみるとひどい働きぶりだった。教材研究もどれぐらいしたか・・・
常勤講師の時代の貯金で新たな教材研究はおろそかであった。全てを採用試験のせいにし、
自己正当化を図るわけではないが、採用試験の難関化、採用基準に高い比率で英語の
資格が組み込まれる中で、当然受験者としては日頃の実践よりも評価の高くなる、
そういった資格試験に精を出す他になかったそれ以外に自分の教育を支えるものが
自分の中に無かった。
 実践を形として評価に組み込まれない(面接で話せば良いという反論が考えられるが、
実際問題、話でどの程度伝わるのか疑問だ。それこそ自著でもあれば別でしょうが。)
現状ではそれも仕方が無いと思う。
<雑感終わり>

寺島先生の講演に話を戻します。
 自分の英語力が伸びている実感が得られない指導法を生徒に提供しても良いのだろうか。
自ら教材研究をする中で英語力が伸びていくのが本筋で、Toeicやら駅前留学で英語力を
高めてからしか英語教師になる資格が無いというのでは本末転倒。

<以下渡部雑感>
 大学入試の長文読解では改めて読んでみると非常に内容のあるものが多いのも事実だ
と思う。近江誠先生が岐阜県英語科主任研修会でお話しされた時に旺文社の
基礎英語長文問題精講の文章を引用し、これらを使って意味と深みのある文章を
使いこなす事が大事だということを強調されていたのを思い出した。確かに、
ただ、大学入試ではどれだけ掘り下げて読み込むかということよりも以下に点数を取るかに
焦点が当てられている。入試では設問を最初に読んでその答えを探し出すscanningする
ように時間設定が組まれているのではないか。その読解『作業』に慣れているために、
その読み方しか「しない」のか「できない」のかどちらかだとしたら、もしかしたら
入試方法や教材の問題もあるのではないか。入試や定期試験での発問方法の研究が、
生徒の読解力を伸ばすよいガイド役になっていればいいのですが。
<雑感終了>


 ここから発音の話に移りました。
 ドバイで、インドから来ている学生がアルバイトの仕事等をしているのを見かけた。
寺島先生が作務衣を着てるので声をかけられて、彼らと英語で話をしてたら英語の
発音をを褒められた。シンガポールの旅行者の人とかにも同じようなことを言われた。
「アメリカでも行ってたのですか??」と尋ねられた。
 自身の開発したリズム読みを使ってトレーニングしてたことで自然と改善された。
しかしご自身は東大の教養学部ではこっぴどく発音の悪さを指摘された経験から
発音にコンプレックスがあるが音の等時性などに気をつけてリズムを大事にトレーニング
することによって、その改善を目指す指導について暗に示唆された。ただし今回は具体的
なトレーニングよりも理論面を重視した講演になったために、この点についてこれ以上
深くは言及されなかった。



ここからは転移する学力について
 「アッチのプールが泳げても、こっちのプールでは泳げない」ではだめである。
1つの力を身につけさせたら他の教科の中でも発揮できるのが本当の学力では無いだろうか。
だから、fundamentalかつessentialな部分を教師が見極め、集中的にトレーニングすることで
転移する学力を身につけさせることが大事だと考えている。


<以下渡部雑感>
なかなか語られない部分で惜しいのですが、寺島先生は英語自体の読解にあまり関心が無い、
というか複雑な構文を用いた難解な文章を読み解く、ということについてどう考えて
おられるのか知りたいところです。複雑な構文を用いた文章の読解というよりも、
英検準1級程度の比較的明晰な文章を「論理的に読み解く、論理的に書く」ことに主眼に
おいておられる気がする。
 つまり、英語の問題というよりも国語力の問題、論理的思考の問題を重視されてる印象を
強く受けます。この点について達人セミナーではあまり取り上げられておらず残念に思います。
以降はその方向に話が進みます)
<雑感終了>

国語力について
 英語の授業を英語で実施することについての、是非について語られました。
 日本語で説明しようとしても、生徒に伝わらないことが多い。どのような図や表現、
映像を使ったとしても教室40人全員に伝わるかどうかは難しい問題だ。英語教師自身が
日本語での実践報告を文章として書こうとしても、ろくにかけずに箇条書きでしか書けない。
その状態でどうして英語で発信が出来るのか。教員が「どこが悪いのか、何が悪いのか」
が分からない状態である。その状態で生徒の文章をどう添削するのか。論理的な展開を
用いた、明晰で分かりやすい文章を書くことが出来ないのは生徒も教員も同じではないか。

 「母語力上限の法則」から自分の母国語以上に第二言語を使いこなすことは出来ない。
ミクロ的なgrammatical errorsは大したことはないが、論理的な文章構成は母国語の働く
役割が大きい。

<以下渡部雑感>
私自身、文法事項の説明に追われ、いかに読むかという視点が無かった。この一年半、
このことに気付き、自分なりに模索を始めた。それには二つの出来事を経験したことが大きい。
一つ目は初めて担任した生徒達へ初めて大学入試対策を行う中で「小論文」の壁を
越えられずに居たこと。二つ目は、個人的にディベートに関わらざるを得ない状況になり、
constructive speechというものを書かなければならなかったことだ。これを通じて、
1つの意見を述べるために、証拠を元に自分の主張を論理的に論証しなければならかったことだ。
ディベートは相手チームとのやり取りの事ばかりクローズアップされるが、
それよりも1つの論題に対して色々な文献を読み取捨しながら自分なりの論理を構築する
作業に学習効果を求めるべきだと考える。それがそれ以外の学習に転移していけば良い。
本来は理科の実験等を通じて、論理的思考や試行錯誤から結論を論証する能力が培われて
きたはず。しかし現在私が担当している生徒を見ていると1つの事についてじっくり
考えていく事ができない。「孤独に耐える力」ならぬ「解らない事によるストレスに耐える力」
が必要だと痛感する。

<雑感終了>


教師に求められる力について

 日本語で説明できる力—生徒に対して、論理的で明晰な説明を「日本語で出来る」ことが
重要である。英語教師自身も実際は、授業以外では英語を使う機会が無い。授業外で使う
日本語ができていなくて、英語力が必要なのか。個人個人事情が異なるかもしれないが、
少なくともギフではそういう人が多い、というのも事実。英語教師とはいえ、無秩序な、
論理が破綻した英文を書いていい、ということではなく、書くのであればそこに
メッセージが込められており、そのメッセージを聞き手や読み手が誤解すること無く、
理解してもらうためには、そういう論理的な文章やぶれの無い文章がかけるようにしていなければ
いけませんよ、ということだ。

<以下雑感>
 英語教師になってから論理的な文章を心掛け得てオリジナルの英文をどれぐらい
書いたのだろうか。仕事の大半は教科書の英文をそのまま、パソコン上で切り貼り加工
するだけ、訳もさして頭をひねって作ってる訳でもない、そういう仕事の仕方だから、
アウトプットといっても、質・量ともに大したことが無い。
 量☞質転換の法則というのが、高橋尚子さんの恩師、中澤正仁先生二教えていただいたが、
これでは転移する学力が私自身にも身に付いていないのがよくわかる。

<雑感終了>


以下、質疑応答 自己家畜化について
 もともと、これはチョムスキーが著作で使っていた言葉。チョムスキーの著書によると、
教師の仕事は良い者をつくること(言いつけに従う者)であると述べている。しかし彼は
自由な教育を受けて中学校まで育ったので、あることをすることを強制されることがなかった。
常に競争、いい成績を取らなければならないと追い立てられるそういう教育に高等学校に
なって初めて触れることになる。大学ですら、知識を注入されそれを吐き出す試験を繰り返す中で
学校生活が嫌になる。その中で出会った恩師(デンマーク人)に討論をする中で、面白さを
覚え、言語学の道を進むことになる。
 ハーバード大学に進んで、そこはアメリカの支配階級層を育成しつつ、高等教育する施設だ
ということが分かった。彼はその後もその後卒業してMITで教えるわけだが、バーバードの経験から、
いろいろな経験をしている。地域の運動やボランティアなどで活躍した者が、リクルートで
入学させられる。夏休みはウォール街でインターンシップ等をするとかして、3ヶ月もすると
元々の考え方からハーバード流というか、いわゆるアメリカ支配階級マインドに染まってしまう。
アメリカの学校では毎朝、星条旗に向かって忠誠の誓いをしないと放校処分されたりする。

<以下渡部雑感>
日本の学校でも上意下達で会議討論が許されないようなことになっているが、その辺りが表題の
具体例になるのではないか。また、オバマ礼賛という風潮が、彼の演説集を授業で使うことや、
学習教材として多数販売されている状況からしても読み取れるが、決して彼の功績が
彼の就任演説当時では評価された訳ではないし、彼の就任後、彼の演説で語られている世界と
違う方向に向かっているのではないか、という向きもある。そういう事を無視して
「言葉を操る部分に長けている」モデルとして彼の演説を短絡的に学校現場や社会人の
学習教材として短絡的に使用することが、もしかしたら、無意識的に「合衆国は優れた国である」
というステレオタイプをインプリンティングしている恐れがある、という事に対しての無自覚さ、
また、そういう生徒を拡大再生産しているのだとしたら、そしてその生徒達の作る社会が
日本独自の文化や国益を逸脱したアメリカに対する最恵国待遇を与えてしまう事につながる
としたら、これほど恐ろしい英語教師の罪は無い、という事なのかもしれない。)
 社会全体が、「教育が生徒を変性させてしまう」ということに気付いていない、
教育者もそういうことに無自覚であることに対する警鐘に耳を傾けるべき。

読みについて〜二種類の読み〜

①物語文に対する読み「膨らまして読む」形象読み
→文章の中に書かれていないもの、行間を、膨らまして読む力。
生徒指導なら、生徒が声に出して言えないことを読む力。

②評論文に対する読み「しぼって読む」分析読み
→書かれていることを論理的に読み分析する力。事実確認。

上の2つの読みを使い分け身につけるべき3つの大事な読む力
【文字を読む/情報を読む/人を読む】

 文字を読む力だけを鍛えていていいのだろうか。世の中でマスコミから
流されている情報を読み解く、マスコミの扱う表層の情報の根底にあるもの
や、その流れの先にあるものを読む力が必要だ。 教科指導での文脈や行間を
読む事は人を読む事や時代を読む事につながる。

<渡部雑感>
 教師の持つべき「世界観」とは何かを考えてみると、世界の流れを
読む力である。生徒指導上教師として必要な「読む力」とは「生徒を読む力」
であり、世界観を持って、あるべき姿を読みそこへ少しずつでも高める指導
を継続する。それが私の営むべき仕事なのだろうか。
 もう一段深めてみると、事実を認識する分析読みが生徒のおかれている
環境状況分析、ふくらせませて読む形象読みが生徒の心の状況を読む、心情を
理解しようとする働きかけが、生徒指導の技術なのだ。教科指導のビジョンが
生徒指導の技術に結びつく事に、今こうしてまとめていて驚いた。

<懇親会でメモした内容について>
 自己家畜化から世界情勢の読み解き方、アメリカの動向から日本の将来を
読む話になった。現在、アメリカは赤字財政の立て直しという名目で、
政府は「行われなければならない」公共サービスを民営化することに
励んでいる。具体的には軍隊を民営化し(正確には私兵集団、傭兵が
企業化し、その企業に米軍が依頼をしているという事でしょうか。)、
刑務所を民営化し、健康保険制度を皆保険化している。

 「民営化」というと、革新的で国民の立場に立った政治という印象ばかりを
うけるのだが、果たしてそうなのだろうか。そこには大きな落とし穴があるよう
だ。民営化の例を挙げながら検証してみた。

 軍隊の民営化は何を引き起こしているのか。民間の軍隊は国際法を問われない
ため、虐殺や略奪などの問題を引き起こしている。近代の戦争を通じて
築き上げてきた枠組みを破壊する行為であり非常に問題である。傭兵という
存在は以前からあっただろうが、それが国家によって依頼されているのならば
その依頼者たる国家がその依頼先の行為に責任を持つべきだと考えるが国際法規
上責任を問われない、という事は問題だ。
 戦争を起こしているのは国家である。仕事を増やすために私企業が意図的に
戦争を起こすような事態も考えられる(ビジネスチャンスを増やすのは企業活動
として、様々な場面で見られる事である。)

 刑務所の民営化も同様である。本来、犯罪者を拘留することが刑務所の唯一の目
的ではなく、犯罪者を更生させて、再犯を犯させないこと、ひいては犯罪率を低下
させる事が刑務所の責務である。にも関わらず寺島先生のお話によると、刑務所が
企業によって運営ならぬ経営されるとしたらば、入所者が減るということは利益が
低下する事を示す。ということは一定人数の入所者を確保しなければならない。そ
うなると、判事に賄賂を渡したり、矯正せず更生しないまま入所者が出所して再犯
を繰り返すという事も考えられるのであるし、事実そういう事もあるそうだ。

 健康保険の皆保険化についてはどうだろうか。アメリカでは国による健康保険が
無く、中流階級以上の者は任意保険に加入して医療費をまかなっているのが実情で
ある。(この辺りはマイケル=ムーアの映画が詳しいらしいですがまだ私は見てい
ません。ボゥリングフォーコロンバインしか見た事がありません。)オバマ氏はこ
の点について大統領選挙で皆保険制度を公約にしている。しかし、公的な健康保険
ではなく民間に委託した形での強制保険にする方向らしい。当然、民間保険会社は
利益を上げる事を最優先に考える事から集金業務に精を出すであろう。しかし、未
払い社には罰金という罰則があるようで公・民連携がこのような形で謀られている
というのは恐ろしい限りである。

 この三点から考察するに、民営化というのは新たな民衆に対する搾取の開始なの
ではないだろうかと真剣に考えてしまう。しかも、公的サービスという看板がある
以上、支払う義務が国民に課せられるのだが、その対価としてのサービスは国民の
生活を守っているのか、非常に怪しいものであるわけで、ただ私企業が利益を上げ
るための「元手」を搾取されているにすぎない、というものである。これは企業に
取っては銀行引き落としよりも確実な集金方法であり、効率的である。更にはこの
数年問題になっているサラ金による取り立てが問題になっているが、そういった問
題にもなることはない。よって企業イメージが著しく損なわれる事も無く表面上ク
リーンな政府の仕事をしているフリだけしていればよい。これほど都合がいい事も
無い。そのようなことを考えると「小さな政府」というのは国民の立場に立った革
新政党のクリーシェと考えていたのだが、実は新保守の新たな搾取の一形態にすぎ
ないのではないか、権力闘争の揺り戻しの一環なのではないかと思ってしまう。
(民衆と企業や政府との権力闘争という文脈で派遣労働問題を捉えれば解っていた
だけるのではないだろうか。)

 おそらく、このような分析によっ寺島先生の旧来からのTOEIC批判というのがあ
るのではないかと思う。本来、英語教員として求められる力である人間力から英語
力をクローズアップし、その中でも読解力というよりもむしろscanningや
skimmingに極度に特化した英語読解力と聴解力(と、短期記憶力?)に特化した
TOEICを物差しとしてまずは企業から導入し始め、最終的には教員採用試験にも強
く影響力を持たせる事で、「英語力の中の一部の能力を測る検定の1つ」でしかな
いTOEICがあたかも絶対的な力を入社試験や採用試験、昇進試験で活用されるに
至った。これによって日本国民の何割かは一定期間TOEICを受験する事を「必要に
迫られ」受験する事になる。受験者は受験料を支払いTOEIC自体はスコアを明示す
るだけでなんらフィードバックは行わない。つまり、問題冊子を作成、印刷、受験
会場の確保、採点分析、結果の通知書印刷、通知書郵送、これらの費用の対価とし
て受験料を負担しているのである。しかし受験された方ならば解ると思うが受験会
場費や会場のスタッフの人件費はかなりの額を使っている事が予想される。TOEIC
やその周辺の企業のために受験料が発生しているのではないかと思っても不思議は
無い訳である。受験料が適正価格なのか、という事は近年問題になっているが、
(TOEIC受験料の値下げがあったが、この事を示唆していると思う)受験者に還元
されるような事業も展開されて入るのであるが、その対象者は非常に限られた人間
である。(TOEICの場合は中高の教員対象のセミナー、か。)そうなると、これも
新たな形の搾取ととらえることができなくもない。ただ、「受験しなくても良い」
または「受験しない意志を持つ」自由もTOEICにはまだ許されている余地はあるの
で前述のアメリカの例よりはましだ、という事はいえるのか。ただ、本年度初めて
高校三年生の受験指導を本格的にしてみて思ったのは「TOEICや英検を持ってない
と不利」という状況は以前にも増して広がっているのではないかと思う。そう思う
と、新たな形の搾取というのは深刻さを増してるにも関わらず、あまり搾取されて
いる実感が無いのも事実である。あたらしい形の搾取というのは、「搾取されてる
実感の伴わない静かな形の搾取」なのかもしれない。